みなさん、こんばんは。
今回は、久しぶりの『歴史探訪シリーズ』です。
コロナ第2波が日本を襲っています。
熊本でも『籠城じゃ~』w
この熊本市が制作したポスターですが…
熊本城は『籠城』に強い城であることを知っていますか?
難攻不落の城として、有名なのは…
- 大阪城(真田丸もあり、徳川20万の軍勢にも落ちなかった城)
- 小田原城(武田信玄、豊臣秀吉が一歩も入城できなかった堅城)
- 上田城(真田昌幸が築城した、自然の要害は大阪城に勝るとも言われる城)
- 熊本城(自然の要害ではなく、要塞として抜群の防衛性能を誇る城)
この4つの城でしょうか。
今日は、わが熊本城の防衛性能についてのお話です。
目次
加藤清正公が築城した堅城『熊本城』
加藤清正公が熊本城を築城したのは、1591年です。
築城と言っても、もともとあった『隈本城』と『千葉城』をまとめる形で、城郭を築き始めたということです。
そして1600年には、天守閣を完成させています。
その間、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)があったので、清正公としては、めちゃくちゃ忙しかったでしょうねw
しかし、この堅城を築城出来たのも、朝鮮出兵時に大ピンチに陥ったからなんですね。
慶長の役で、清正公は、小西行長(宇土城城主)と共に破竹の勢いで、黄石山城を陥落。道都の全州を占領することに成功し、日本軍の拠点とするべく蔚山倭城の築城に取り掛かります。
完成間近に清正公は大ピンチに陥るんですね。
明・朝鮮連合軍、約6万の兵に蔚山倭城を囲まれます。
籠城を余儀なくされた清正公は、援軍が来るまでの10日間を絶えしのぐことになります。
10日後に、黒田長政・毛利秀元・長曾我部元親らの援軍により救出されました。
この籠城の経験が、熊本城を日本一の防衛性能を誇る城にしたと言われているんですね。
熊本県では、清正公の朝鮮出兵の大勝利を祝う『例大祭』が、現在でも毎年行われています。
『籠城戦って、負け戦じゃないの?』
『籠城戦で勝った戦ってあるの?』
んー。
負け戦のイメージは強いかも知れませんね。
それは、恐らく大河なんかでも。最終的に追い詰められて籠城するってパターンが多いからだと思います。
実際には、そんなことないと思いますよ。
そもそも、籠城戦は援軍ありきの戦いですからね。
要するに、挟み撃ちしちゃおうぜ!って作戦ですw
援軍が到着するための時間を、どう稼ぐかがポイントということです。
有名どころでは『桶狭間の戦い』とか『長篠の戦い』ですかね。
そういう意味では、勝利することも少なくはなかったんじゃないかと思います。
しらんけど…w
防衛性能がめちゃくちゃスゴい『堅城・熊本城』
蔚山倭城の経験を基に、清正公は熊本城を籠城に強い、防衛性能に優れた城に築城するわけです。
そのアイデアの中でも、特に優れたものをご紹介します。
武者返し
熊本城といえば『武者返し』ですよね。
石垣から城への侵入を防ぐために作られた『武者返し』。
一見、登れそうな石垣は、上に行けば行くほど『90度』に近い角度へと反り上がっていきます。
『武者(敵)も引き返すしかない』ということで、武者返しと名付けられました。
武士のみならず、忍者ですら上ることは難しいでしょう。
忍者返し
『武者返し』は有名ですが、『忍者返し』は知らない方も多いのではないでしょうか。
『忍者返し』とは、石垣と城壁の間から突き出した『鉄剣』です。
熊本城には、場内から鉄砲を放てるよう、ところどころに発砲口が作られています。
これ自体が、防衛性能を高めるものでもあります。
この間口は、銃口が出る分だけ開いていることが多いんですが…
門の真上なんかは、一斉射撃が可能な間口の広い箇所もあります。
甲冑を纏った武士が登れるとは思いませんが、身軽な忍者なら忍び込めるほどのスペースはあります。
そんな忍者すら上らせないよう、忍者返しが仕組まれているんですね。
登ったら…刺さりますw
最強の虎口『桝形虎口』
虎口とは、城への出入口のことです。
小口とも書きます。
敵が押し寄せた際、城への出入り口を狭く小さくすることで、一気になだれ込むのを防ぐ目的で作られるものです。
さまざまな虎口がある中で、最強と言われる『桝形虎口』を清正公は採用しています。
この『桝形虎口』とは、城に辿り着くまでに、何度も直角に曲がらなければ辿り着けないような設計になっています。
そして、その曲がり角を利用して、守備側が四方から、弓矢や銃で侵入してきた敵を一網打尽にすることが可能な設計にしたわけですね。
籠城を絶え凌ぐための兵糧
『腹が減っては戦はできぬ』
籠城で最も過酷とされるのが、兵糧です。
いつまで続くか分からない籠城戦にとって、兵糧は生命線とも言えます。
城攻めには、まず兵糧庫を制圧せよ!とまで言われていますからね。
清正公は、そこも当然あたまに入れているわけです。
熊本城の井戸の数、なんと120戸!
これは、ほかの城に比べてもめちゃくちゃ多いですね。
そして…
なんと!
熊本城が食べられるって知ってました?w
もう、ヘンゼルとグレーテルやんw
城の壁には『かんぴょう』が練り込まれ、畳の芯には『里芋の根』が使われている。
また、矢をまとめるヒモは『干しワラビ』と長引く籠城戦で兵糧が尽きたとしても、それらの保存食で凌ぐように考えられていたんですね。
ただ…この話は……そう言われている。
その程度です。
実は、どの資料にも書かれていません。
この辺りは、黒田官兵衛も行っていたとされているので、黒田官兵衛と加藤清正公の関係性から言い伝えられているものなのかも知れませんね。
それでも、城マニアにとっては…そうであって欲しいと願うばかりですねw
今日は、ここまで。
次回『陸上自衛隊 VS 加藤清正公』
では、ばいちゃ。
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