さてさて、大好評『歴史探訪シリーズ』でございます。
今回は、豊臣秀吉が築城した難攻不落『大阪城』のお話です。
徳川20万の兵にも耐えた『大阪城』は、なぜいとも簡単に陥落したのか?
そんなお話です。
目次
世界最大級の城『大阪城』
その広さ、なんと420万㎡!
現存する天守だけでいうと『姫路城』が日本一ですが…
内堀、外堀まで含めた土地としては、当時大阪城が一番だったでしょうね。
現在の大阪城公園の約4倍の大きさです。
ちなみに…その後、徳川家康によって築城された江戸城は、大阪城に負けてはならないということで、若干大きく造られていますw
大阪城が難攻不落と言われる理由
大阪城が難攻不落と言われるのは、何といっても自然要害を活かした地の利でしょう。
織田信長もこの地を欲しがったと言われています。
北は淀川、西は寝屋川と川に囲まれた要害で、侵入口は南のみでした。
南には、幅50mもの内堀と外堀が2重にも3重にも造られ、侵入を許しません。
築城には、名城軍師『黒田官兵衛』後に『藤堂高虎』徳川再建時には『加藤清正』も関わっています。
まさに築城の名手と言われる偉人たちが手掛けた最高傑作ですね。
なぜ難攻不落の大阪城が陥落したのか?
大阪冬の陣では、徳川20万の軍勢を一歩も城内に侵入させなかったにも関わらず、夏の陣では15万の軍勢により陥落させられてしまいます。
一体、なにがあったのでしょう。
出城『真田丸』
大阪冬の陣において、南側の防衛に出城『真田丸』を築いたことが和睦に持ち込めた要因であると多くの書物で謳われています。
確かに、真田丸の貢献は大きかったですね。
一瞬、勝てそうでしたからねw
大阪城の防衛性能に頼り切った『籠城』
前回もお伝えしましたが…籠城というものは援軍ありきの戦い方です。
しかしながら、大阪の陣が開戦された頃は、ほぼ徳川の世となっていたわけですね。
豊臣秀吉は、息子である秀頼が5歳の頃に亡くなっています。
秀頼は、天下人『秀吉』のスキルを学ぶには若すぎました。
特に『人たらし』と言われた秀吉の人心掌握術を学べなかったことは大きいですね。
要するに、豊臣家は孤立してしまったわけです。
真田丸だけでは、徳川に打撃を与えることは出来なかったということですね。
『口は禍の元』大阪城を陥落させたのは秀吉だった…
大阪城を築城した際に、秀吉は各大名を招き、大阪城が如何に難攻不落を説いて回りました。
『城内には10万の兵を収納できるし、籠城しても絶対に陥落せーへんで』
それを聞いた、徳川家康は、秀吉にこう言うわけです。
『こりゃ落ちへんわ!マジ、すげーな』
そんな風に言われたら…秀吉は、気分がいいですよね。
家康は、続けて言います。
家康『この城を落とせるとしたら、秀吉にーさんしかおらんのちゃう?』
秀吉『まぁ…せやな。わしが攻めるとなると話は別やでw』
家康『マジで?秀吉にーさんやれるん?』
秀吉『当たり前やん。誰やと思てんねん!秀吉さんだぞ。』
家康『すげー。そんなん誰にも思いつきませんよ。にーさんなら、どうやって落とすか教えてくださいよー』
秀吉『めっちゃ簡単やで。まず、適当に因縁つけて攻めるやろ。ほんで、すぐに和睦に持ち込むねん。その和睦条約に、南側の外堀と内堀を埋める条件入れるやん。ほんで、もう一回攻めたらええねん。和睦を反故にする理由なんか、なんでもええのよw』
その数年後、家康は秀吉が言った通りのことを大阪の陣で実行したわけですね。
『口は禍の元』
今日は、ここまで。
では。
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