【伝え方×歴史探訪】生涯の友『石田三成』のために生きた戦国最強の知将『大谷吉継』の壮絶な人生から学ぶ『記憶に粘り付く話』vol.2

教育
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みなさん、こんばんは。

前回から『記憶に粘り付く話』をテーマに書いております。

今回から、いよいよ『大谷吉継』の生涯を追っていきたいと思います。

前回の記事をご覧いただけていない方は『コチラ』からどうぞ。

さて、『大谷吉継』という人物を知っていますでしょうか?

私の友人の『サム』は、大谷吉継が大好きですw

軍師が好きとは…小学生には、珍しいタイプですw

おいおい。小学生の友達がいるんかよ!という声は聞こえないテイで…w

この大谷吉継という漢。

歴史マニアの間では、戦国最強の知将と言われることもあるほどの人物です。

驚異のスピード出世を果たした武将としても有名ですね。

いやいや、軍師と言えば…

『黒田官兵衛』でしょ。

『竹中半兵衛』でしょ

そんな声が聞こえて来そうですがw

確かに『大谷吉継』が残した戦績ってあんまり聞かないですよね。。。

『小田原征伐』くらいですか。。。

まぁそもそも軍師なんてもんは、世に出ない人ですから。

だいたいの人は、官兵衛を知ったのも、大河で岡田くんが演じたからですよw

なぜ『大谷吉継』の名は後世にあまり伝わらないのか?

大谷吉継が仕えた武将を挙げてみると…

『織田信長』『豊臣秀吉』『徳川家康』と天下人を含む、錚々たる武将です。

これらの武将の右腕として、召し抱えられていたにも関わらず、そんなに名を遺せていないのには訳があります。

実は、大谷吉継は若い頃から、ライ病(ハンセン病)に侵されていました。

その病により、なかなか戦へ出陣することが出来なかったんですね。

病にも関わらず、天下人が大谷吉継を欲しがること自体が、大谷吉継の類稀なる才覚を証明しています。

秀吉は…

『吉継に100万の兵を与え、自由に指揮させたい』

と言っています。

生涯の友『石田三成』との出会い

なぜ『負け戦』と分かっていながら、関ヶ原の戦いに西軍として出陣したのか?

これには、大谷吉継と石田三成の関係が大きく影響していると言われています。

大谷吉継と石田三成が、生涯の友となった逸話が残されています。

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大阪城での茶会で二人は席を共にします。

その茶会は、10名程の武将が参加し、茶人が点てた茶を、上座から下座へ、一口ずつ回し飲むというものでした。

冒頭にお伝えした通り、大谷吉継はライ病を患っています。

ライ病って、今では感染しないことが医療研究によって解明されていますが、当時はそんなことわかっていないですよね。

ライ病が、どんな病かを簡単に説明しておくと…

皮膚細胞がただれ、膿とともに皮膚が剥がれ落ちるような病です。

大谷吉継のイメージって、白い布で顔を覆っているイメージが強いんですが、それもライ病によって、ただれ剥がれ落ちた醜い顔を隠すためだったんですね。

どうでしょう?

感染するかも知れない病に侵された、醜い顔の男が口を付けた茶を…あなたは飲めますか?

大阪城の茶会でも、同席した武将は、やはりいい顔はしていなかったでしょうね。

そして、茶会が始まり、いよいよ茶が点てられ、回し飲みが始まります。

大谷吉継が、一口飲もうとした時…

『……ボトっ』っと、頬の細胞が膿とともに剥がれ落ちてしまったんです。

その剥がれ落ちた、細胞と膿は、茶碗の中に入ってしまいます。

しかし、茶会を中断することは、礼儀として許されません。

茶は、大谷吉継から石田三成へと回されます。

それを見ていた、下座の石田三成。

なんと!

剥がれ落ちた頬が入った茶を、一気に飲み干したのです。

そして…

『ごめん!めっちゃ美味いから全部飲み干してもた!もう一服、立ててくれ!』

そんな風に言い放ったんです。

他の武将に知れて、大谷吉継が嫌な想いをしないように配慮したというわけですね。

これに、感動した大谷吉継は、石田三成のためなら、命を捧げることも厭わないと、心に誓ったと言われています。

その後、二人は生涯の友として、戦国の世を駆け抜けていくことになります。

【開戦】関ヶ原の戦い

秀吉死去後、大谷吉継と石田三成は、徳川家康に仕えていましたが…

いろいろあって、三成は蟄居を命じられます。

徳川家康は、関ヶ原の戦いの幕開けになった『会津征伐』に出陣。

大谷吉継も会津征伐に合流するよう、徳川家康から命じられています。

大谷吉継は会津征伐に合流するべく出陣しますが、途中で三成が蟄居している佐和山城に立ち寄るんですね。

『元気ー?』くらいのノリでw

行ったわけじゃないですよ。

吉継は、石田家存続のために、会津征伐に同行させようとしていたのです。

厳密に言えば、蟄居の身である三成の後継者を同行させ、武功を挙げることで家康とのパイプ役になろうとしたわけですね。

石田家存続を願い、佐和山城へ出向いた大谷吉継は、三成から衝撃の言葉を聞くことになります。

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三成『オレな。家康、いってもたろ思てんねん。あいつ調子乗ってるやろ?』

吉継『はぁ?お前、なに言うてんねん!アホちゃうか。』

三成『なんでやねん。あんなもん、やってもたったらええねん。』

吉継『やめとけって!おまえボコられんでw』

三成『いや、俺はやるで。輝元兄やんも、その気やねん。』

吉継『あかんて。おまえ人望ないんやから、まず人が集まらんて。』

三成『だから、輝元兄やんを総大将にしてやな…』

吉継『それでも、あかんて。家康さん怒ったらマジやばいん知らんの?』

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と、まぁこんな感じだったかは…わかりませんがw

吉継は、徳川家康との間を取り持って、石田家を存続させようとしたのですが…

三成に挙兵することを告げられたわけです。

吉継は、三日三晩、三成に挙兵を辞めるよう説得しています。

そして、ついには吉継が折れたんですね。

石田三成の無謀とも想える『負け戦』を『勝ち戦』にするために、吉継は奔走します。

豊臣勢を挙兵させても、西軍の兵力は東軍に比べ、2万ほど少ないんですね。

そこで、大谷吉継は陣形を有利にすることで、兵力の差をカバーしようとします。

後に、関ヶ原の戦いの布陣図を見たドイツの軍事家クレメンスが…

『これは、西軍の勝ちだ』

と言ったとか、言っていないとかw

まぁ、それほど優位な布陣を敷くことに成功しています。

大谷吉継の最期

関ヶ原の戦いは、たった6時間で決着が着いた戦いです。

それでも、開戦当初は、吉継が敷いた布陣が功を奏し、西軍有利に進められます。

戦局が大きく動いたとされるのは、みなさんもよく知る…

『小早川秀秋』による寝返りとされていますね。

しかし、この小早川の寝返りも、吉継は完全に見破っています。

『小早川は、どうせ寝返るから、4つの部隊で囲んでおこうぜ』

そんな『小早川寝返りありき』の布陣にしてるんですね。

小早川の寝返りに備えて、大谷吉継自身の隊も近場に陣取っています。

実は、大谷吉継が誤算だったのは…その囲んだ4部隊も東軍に寝返ったということです。

吉継は、小早川が寝返ったと分かってすぐに、4部隊をすぐに出陣させています。

そして、吉継自身も追撃のために出陣しました。

小早川の陣、深くに切れ込んだ時、4部隊も寝返っていたことに気付いたんですね。

時すでに遅し、四方を敵陣に囲まれ、万事休す。

まさに、四面楚歌状態となったわけです。

大谷軍も必死に応戦しますが、軍は散り散り。

もはやここまでと悟った、吉継は切腹を決断します。

生涯の友『石田三成』に命を捧げた男。

大谷吉継、享年42歳。

尚、石田三成は、首謀者として斬首に処されています。

天下分け目の大戦で、ここまで武将が戦死しなかったのも、大谷吉継の知略があってこそだったかも知れませんね。

今日は、ここまで。

吉継と三成の友情物語。

誰かに話してみたくなりました?

話した相手が一週間後に覚えていれば、記憶に粘り付く話があなたにも出来たということです。

では、ばーい。

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