みなさん、こんばんは。
久々のw歴史探訪シリーズでございます。
さて、熊本が生んだ英才『横井小楠』をご存じでしょうか。
そうです。
幕末の思想家であり、教育者です。
官立学校である、第5高等中学校(現熊本大学)が熊本の地にあるのも、もしかして『横井小楠』の影響じゃないの?と思うのは邪推でしょうか?w
なんせ『学校を作れ!』と松平春嶽を通して、建白書を幕府に出してますからね。
教育に携わる者としては、横井小楠をさけて通るわけにはいきません。
『熊本の街づくりは、人づくりから始まる』
この基盤を作ったのも、横井小楠ではないでしょうか。
『横井小楠』のもとには、数多くの幕末志士が訪ね、日本の行く末を議論したと記録が残っています。
坂本龍馬は勿論のこと、初代内閣総理大臣である伊藤博文を育てた、教育者『吉田松陰』も、ロシア船密航を実行する前に、横井小楠を訪ね、3日間にも及ぶ意見交換をしたそうです。
ちなみに、吉田松陰のロシア船密航は、ロシア船が予定よりも早くに長崎港を出航してしまい、失敗に終わっています。そして、翌年アメリカ船への乗り込みに失敗し幽閉されることになります。
他にも数多くの、志士たちが訪れております。
それだけ、横井小楠という人物が優れていたということでしょう。
勝海舟は…
『この世で2人だけ怪物を見たことがある。一人は横井小楠。もう一人は西郷隆盛。小楠の考えを、西郷が実行すれば、幕府はひとたまりもない』
と言っています。
今日は、熊本を教育のまちに育て上げた『横井小楠』が、いかにヤバい人だったか。そんなお話です。
『実学』を推し進めたが故に孤立?
横井小楠は、熊本でもかなりの秀才であることが知られていました。
藩校である時習館(現二の丸広場)には、8歳で入学し、塾長まで務めた人物です。
時習館は、成績が優秀であれば、藩士でなくとも入学できる、当時珍しい学校だったんです。
この辺りも、熊本は教育のまちであると言われる所以かも知れませんね。
しかし、横井小楠は肥後藩の教育に疑問を持ちます。
時習館で教わる内容は、暗記することがほとんどだったんです。
これでは、全く意味がないないと考えた小楠は、『実学』を主張するわけです。
『学んだことを実用できなければ、学んだことにならない』と提唱したんですね。
しかし、このことが、時習館出身者が多い、藩の主流派から警戒されることになり、孤立していきます。
2020年、日本の教育改革の一つである、大学入試改革。
そこで謳われていることは、既に200年前に、熊本の地で『横井小楠』が提唱していたということですね。
ちょっと、無理があるかw
まぁ、聞いてください。
次の話で、ほんまやになりますから。
私塾『四時軒』を開校
実学を推し進めるために、横井小楠は『四時軒(現横井小楠記念館)』を設立します。
四時軒の教育は、年長者に本を朗読させ、その内容について、塾生が自由に論じるというスタイルです。
議論を尽くしたのちに、小楠が総評と自身の考えを述べる。
いや、これアクティブラーニングやんw
いいですか。
2020年の教育改革の目玉とされる、アクティブラーニング。
既に、200年前に横井小楠が、熊本でやってますねん。
ヤバいでしょw
私が、アクティブラーニングを本格的に意識し始めたのは…10年前です。
ハーバード大学マイケルサンデル教授の授業を観た時は衝撃でしたね。
これが授業なのか…とw。
その授業は、めちゃくちゃ魅力的だったんですね。
そして、その授業を200年前に、小楠がやっている。
いかに横井小楠がヤバい人か、わかってきましたか?w
小楠の教育に対する考えは、時代を超越しているわけです。
時代が小楠に追いついていない感じですね。
保守派が多い肥後の地では、小楠の思想は、より受け入れられなかったということでしょう。
現在でも、同様ですね。
『アクティブラーニングは欧米の教育方法や』って嫌う人もいます。。。
嫌う人がいることからなのか…学習要綱からアクティブラーニングという言葉は消えたものの『対話教育』に成り代わっていますw
それ、アクティブラーニングを日本語にしただけですからw
日本人には合わない。欧米の教育だと騒いでいる一部の方もいるようですが…
教育に国籍は関係ないですからねw
結果が出ないことを人種のせいにしないでください。
あなたの教育の仕方が間違ってるんです。
新たな教育方法が出てくると、必ず反対する人がいます。
それは、自分自身が新たなやり方で上手くできないからです。
そして、欧米の教育やと主張していた教育法は、そもそも横井小楠がやってますからw
論理が破綻してますw
教育の基本は『対話』であるということを忘れてはなりません。
江戸時代に『移籍』だと⁉
私塾『四時軒』を開設した横井小楠の名は徐々に世間に広まり、ついに福井藩主『松平春嶽』の目に留まります。
福井藩主『松平春嶽』といえば、薩摩『島津斉彬』土佐『山内容堂』宇和島『伊達宗城』と並ぶ、四賢候の一角とされるほどの人物です。
いわば、徳川慶喜を動かしている4名の大名ですね。(斉彬死去後は、久光を加えています)
その松平春嶽から、横井小楠は『相談役』として、熱烈オファーを貰うことになります。
これ、大河ドラマとか観てて、めっちゃ不思議じゃなかったですか?
なんで福井藩主の右腕が肥後藩士やねんw
相談役って、いわゆる『政治顧問』ですよ。
当時の日本は、『藩』=『国』であり、日本国という感覚はそんなに持っていない時代ですよね。
今で言えば、ニューヨーク州知事の右腕が日本人みたいなw
それくらい、あり得ないことです。
他藩に行くときにも、関所を通らないといけないわけで…今でいうパスポートがないと他藩には行けないんですよ。
なので江戸留学にしても、藩の許可を得て、初めて越境できるわけです。
藩の許可を得ずに、藩外へ出れば『脱藩』と見なされ、死罪に値するそんな時代。
他国のトップ、しかも幕府を動かしているような人が、他国の一私塾長にすぎない人物をヘッドハンティングするんですよ!
ヤバいやろw
現に、松平春嶽は肥後藩に対して、幾度となく横井小楠を貸してくれと書状を送っています。
そして、移籍に至るわけですw
厳密に言えば、移籍ではありませんが…それに近いですよねw
その時代に、前例のない『ヘッドハンティング』を、四賢候の一人が本気でやり遂げるほど、小楠の『実学』による教育は、魅力的だったということでしょう。
新政府綱領八策を起草した?
新政府綱領八策とは、俗にいう『船中八策』ですね。
坂本龍馬が新政府設立にあたり、草案を仕上げたものとされています。
今では、後世による創作だと言われることもありますが…
歴史の教科書なんて、ウソばっかりなんやからええやんw
歴史はロマンやw
と思っているのは私だけでしょうかw
まぁ、とにかく坂本龍馬は学ぶのが大好きな人物でした。
自分が気になったことは、誰でもかれでも直接話を聞きに行くw
お前、誰やねんw状態ですよ。
そんな龍馬も勝海舟の後ろ盾を受けて、横井小楠に3回面会しています。
福井藩政治顧問として、春嶽の相談役になった小楠は、日本という国をどのように変革すべきかを、春嶽に提言します。
幕府への建白書を起草したわけです。
言い換えれば、小楠は春嶽を通して、幕府に建白書を提出したということですね。
『国是三論』『国是七条』『国是十二条』などが有名ですが…
ざっくり言うと、こんな感じです。
- 徳川の政治をやめる
- 富国強兵
- 自由貿易から官貿易に切り替えて税収を得る
- 文武両道による政治を実行
- 参勤交代の廃止
- 海軍強化
- 立場に関係なく、有能な人材の登用
- 言論の自由を確保
- 学校をつくれ
- 愚かなものは排除
- 外国との交流をせよ
細かいことは気にせずに、めっちゃ簡単にいうと、こういうことですw
当然、坂本龍馬が面会したとにも、この考えを説いています。
そりゃ、船中八策に取り入れられてるわな。
要するに、明治政府設立に対する考え方の礎を築いたのは、横井小楠であったということですね。
尚、横井小楠は暗殺されるまで、明治新政府の参与として、政治に参加しています。
その時も、藩内の評価はあまり良くなく、岩倉具視が無理やり登用したそうです。
61歳、志半ばで、この世を去る
様々な改革を行ってきた小楠は、暗殺によりその生涯を終えることになります。
暗殺理由は、『キリスト教を布教しようとしている』という疑惑でした。
しかしながら、小楠は…
世界の文化を広く受け入れることは大切だが、異教が上陸することについては、仏教との対立が起こる可能性を指摘し、懸念しています。
後に、この暗殺事件は、勘違いによる風評によって、暗殺されたとされています。
最悪やな…
勘違いで暗殺って…
日本は教育の宝を失った代わりに、何を得たのでしょうか。
横井小楠が暗殺されなければ、日本の教育は、もっと早くに『実学』を基にしたカリキュラムになっていたかも知れませんね。
今日は、ここまで。
熊本は教育のまちです。
私が、熊本を離れられない理由の一つかもしれません。
横井小楠から熊本に残れと熱烈オファーを受けているかは、分かりませんがw
歴史探訪、次回もお楽しみに!
では、ばいなら。
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